大和国・山背国の国境を越える古道「歌姫の道」の御縣山を登りきった辺りに添御縣坐神社(そうのみあがたにいますじんじゃ)があります。当社は大和平野中央を縦貫する「下つ道」の北の基点にあり、古来より国境沿いに鎮座する「手向けの神」として信仰を集めていました。神社には菅原道真の「このたびは 幣(ぬさ)も取りあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに」と添御縣坐神社の神に旅の安全を祈った歌が刻まれています。この付近は古代からの道幅に手を付けられないのか、幅員が狭く大きな車両の通行が制限されている。
歌姫の道を南下して、名も無き亀の池を左にまがると「磐之媛」が眠るお墓へと更に進みます。水上池で視界が開けたら平城宮が広がっていますが、磐之媛の時代にはその様な高層建築物は無く、大和平野から金剛葛城連山が広く遠望できたはずです。この地に立った姫が「つぎねふ 山城河を 宮上り 我が上れば あおによし 奈良を過ぎ 小楯 大和を過ぎ 我が見が欲し国は 葛城高宮吾家(わぎえ)のあたり」<那良の山口にて磐之媛皇后 古事記>と故郷御所を偲んで歌ったのでしょう。*那良(ナラ=山代国と大和国の間にある平城山のこと)
磐之姫は夫である「仁徳帝」の浮気に悋気から家出して、南山城の筒木に宮居(みやい)を作ってここに住んだ。天皇は皇后の所へ迎えの使いを送るが、それも追い返してしまう。そこで、天皇自ら迎えに行くが、それでも皇后は会おうともされなかったので、歴史に記録として残る最古の嫉妬深い后と揶揄されることも多い姫となった。が、嫉妬と言い表される以上に深い意味があったのかもしれません。宮居を設けた筒木は、歌姫の道の起点と云えばそう取ることが出来ます。姫は那良(なら)を過ぎ、大和に入り故郷葛城の髙宮を懐かしく思ったのでしょう。しかし、お墓は何も語らずです。
心寂しく亡くなった磐之媛を慰め此処に墓所を設けたと云われます。確かに南の大和御所方向に向かって立地している。この近辺には佐紀盾列古墳群(さきたたなみこふんぐん)が広がり、神功皇后陵やウワナベ古墳など、墳長200m前後の巨大古墳群を見ることができます。
嫉妬
我が心 訴する筒井か 髙宮か <偐文春砲>
我が心 訴する筒井か 髙宮か <偐文春砲>