河内温泉大学

姓は車 名は寅次郎 人呼んで フーテンの寅と発します

役行者が開いた山伏修験道と桜の名所吉野へ結界「柳の渡」から

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 インド伝来ではない日本固有の仏教である「修験道」の道場は下市から大峰山に登るルートが一般的です。しかし、これは明治以来のことで昔は吉野山から金峰山へ参り、大峰山を縦走するのが順路でした。吉野から熊野へ向かうのを「逆の峰」と云い、逆を「順の峰」と呼ぶが、これは「陰と陽」密教で云う金胎両部(こんたいりょうぶ)を現すと共に神武東征にちなんだ名称と云われています。

 台風が東海沖をかすめて去った翌日の梅雨の晴れ間、河内を出立した現在の偐修験者は大和に入ると、横大路を金剛葛城の麓を南下した。水越峠から来る古道との交点を東に下り、国道を横切ると右には武内宿禰の墓ではないかと云われる室宮山古墳、正面には筆者が現在の東征の道と呼ぶ「京和奈道」が横切ります。字で云うと「玉手」、「柏原」そして「冨田」を過ぎると近鉄吉野線が脇に寄ってきます。すると「吉野口駅」が近い。更に進み「車坂」峠付近から道は吉野川へと勾配を下っていく。下市の市街を過ぎて吉野川に出会った付近に「柳の渡」があります。此処が結界でした。

 吉野川を渡り道なりに山道を進むと「吉野神宮」が見えて来ます。吉野山ロープウエイが昨年から故障して不通に、代替バスがこの道を参詣客や観光客を運んでいると、昼食を食べた「静亭」の女将から聞いた。蛇足だがロープウエイ再開の目処は立っていないとも。金峯山寺には願掛けのお礼にと同行が行ったのを待つ。記憶に有る限りでは、吉野は小学校の林間学舎以来です。多分この町並みの何処かの吉野建旅館に泊まったのだろう。着くなり玄関の大きな容器に、米を入れさせられたのを思い出します。

 本日一番の目的は「櫻本坊」という寺院です。玄関に車を横付けさせていただき拝観。と、行っても境内を彷徨き匂いを嗅ぐだけです。桜の季節が過ぎた吉野には、人気も無く舞い上がる埃も無い。ただ吉野の匂いだけが漂っています。数十万いや一説では百万を超えているという修験者達が、山伏装束でこの吉野から熊野本宮の間で修行を行います。

 熊野本宮の先は「入水往生」の世界、そこを目指していく大峰行は、一旦死ぬことを意味したから「逆の峰」。そこから生き返るから「順の峰」と云うらしい。道中の肝試しとも云われる逆さ吊りは、生と死の世界を体験するという仕組みであるのかも知れません。そこから生還して再び柳の渡しで現世に戻るのが現代人というか凡人、磐余彦は「柏原」で即位して神武天皇になられた。

 吉野水分神社へ先を急ごうとするが、何度かコースを離れてしまいます。狭い山道でバッグを繰り返す、両サイドが谷という道はある意味では修行です。何とかルートを見付けて一気に駆け上がりますと、奥駆けへの入口かの如く鳥居が現れます。玉依姫の神像が祀られていると云うが、何やら薄暗くてはっきりしない。女人禁制の山に女神様とは面白い取り合わせだ。水分がミクバリからミゴモリ、コモリとなり安産・多産の神となったと、白洲正子は著書「かくれ里」で語っている。その女体なる山に役行者は引かれたのだとも。

 水分神社から少し下ってひらけた眺望の良い場所「花矢倉」から、西北を望む。足元の桜から金峯山寺本堂、遠くは二上山葛城山そして金剛山が一望でき、桜のシーズンには必ずテレビロケが行われています。役行者が神を脅かし葛城から吉野へ橋を架けさせようとしたという伝説の岩橋が目に浮かぶようです。千数百年前の野山を駈けて、自然と合体した人物の想像力は、現代人の知恵を凌駕しているように思えてしかたがない。

 写真:柳の渡し、吉野神宮櫻本坊二題、吉野水分神社二題、花矢倉遠望

 大峰山
 賑やかに 人神往来 紀伊大和 <偐山頭火>