河内温泉大学

姓は車 名は寅次郎 人呼んで フーテンの寅と発します

熱波災害の京都「伏見街道往還」の銀輪行

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

 表題の通りテレビマスコミでは盛んに今年の連続猛暑を熱波災害とよび、命に関わる危険が迫っていると報道しています。熱波とは関係無く既に生命の危険エリアに突入している偐家持氏と愚僧。久しぶりのバイク行を表題の通り京都東山南部から宇治川までの古道沿いを、社寺仏閣・御陵等を見学しつつ往還し生還してきましたのでそのご報告といたします。

 大阪平野部では各々の庵から出発何れかに於いて合流してバイク行、生駒山系を越える場合は適当な場所まで車で移動してバイク行というのが我々の行動パターンです。今回は後者に該当するので、偐家持氏を彼馴染みの喫茶店でピックアップして起点の京都横大路運動広場まで移動する。ざっくりとした表現をすると、淀競馬場の北直ぐにある清掃工場に隣接する巨大な運動広場です。ここでの車の置き場については、流石に偐家持氏という彼独特の深読みが見事にヒットするが、それは無事帰り着いてから説明いたしましょう。

 今回のバイク行を何故伏見街道往還としたかは、次回の読書会のテーマが大いに関係する。「南北朝」林屋辰三郎著(朝日新書)を次回のテーマと選んだのが同人の槇麻呂氏です。南北朝とは、後醍醐天皇をキーパーソンに楠木正成足利尊氏等、南朝方と北朝方が半世紀にわたり日本で内乱状態であった時期です。そこでこの時代に登場する、後伏見、伏見、後光厳天皇などを葬ったという深草北陵(十二陵、以後深草十二陵とします)が道中にあること。他に仁明天皇陵・恒武天皇陵等が点在していてこれらを結ぶ点を線で繋ごうという目論見であります。随分前置きが長くなりました、では淀のゲートから出発することにしましょう。

 災害クラスという暑さは、我々が車から降りた十時過ぎで既に30度近いのではないでしょうか。ゲートから、私が知っている範囲で一番古い国道1号に出て北上します。京都外環状線という山科まで結ぶ幹線道路を利用して新しい国道1号(京阪国道)に出ます。更に適当な地点で油小路と東へずれながら北上します。偐家持氏の目論見では、伏見の街区内を見学しつつ北上し伏見稲荷辺りで折り返す予定だったことが出発前に渡されたルート図から読み取れる。出だしで両者かみ合わず伏見の街区を過ぎた辺りで、偐家持氏の思惑通りとなり藤森神社に到着です。

 藤森神社は競馬の神さんと云うことで有名で、紫陽花も綺麗です。我ら競馬にも縁がなく、紫陽花も既に過ぎた神社は閑散としている。特に閑散と見えたのは、またしても神社の裏口から入った為でもあるようで、南門や西門からは参拝の人が多い。日本書紀編纂にたずさわった舎人親王も祀られていて、学問の神様としても信仰を集めています。なるほど沿線沿いには北から龍谷大・立命館高。聖母大そして京都教育大と藤森神社にあやかって出来たわけでもないだろうが学校が多い。

 藤森神社を見学後は伏見街道を暫し北上、名神高速が東西に見えるころ更に東へと分け入ると仁明天皇深草陵へとすんなりと到着予定だったがここで転ける。ゴルフで云うとラフに入るというか、クラブの根っこで打って何処へ行ったか分からないシャンクです。この辺りはかなりの傾斜地であり、高温と高齢というハンディを背負ったプレイヤーには非常に厳しい神の試練です。でも、流石に仁明天皇は心お優しき方、民家の隙間から「おいで、おいで」と手招きして下さっている。さあ、次なる目標は名神高速を越えて北側にある深草十二陵です。

 辺りは東山山系が南へと続く緩傾斜面で、古くから神社仏閣が建ち並んでいたのでしょうが、現在ではその隙間を民家が密集している。密集と行っても適当な間隔はあるが、都市計画法建築基準法の許容の範囲内で迫っていることには違いない。その為いわゆる古墳といえども民家の屋根や植え込みに隠されていて、大和や河内での大王陵を探すのとはちと勝手が違う。深草十二陵も近くの嘉祥寺という寺の塀越しに発見した。神社仏閣若しくは私立某医大なら裏口入門も可能であるが、流石に宮内庁は裏口は認めず、民家との狭い境界上をふらつきながら表に出る。墳墓の西側を旧国鉄に剔られた御陵の正面に出ると、近鉄橿原線大和郡山駅や桜井線の箸墓周辺を思い出す。近鉄線は大和郡山城を寸断している、桜井線は纒向遺跡辺りから墳墓にお構い無しに直線に進んでいる。文明開化という名の元なら何でも許された時代というか、お題目が正しいと思えば節操なく進むという我が民族性を現しているのでしょうか。

 話が脇に逸れましたフェアーウエイに戻りましょう。深草十二陵について調べみますと「第89代後深草天皇を皮切りに、92代伏見天皇、93代後伏見天皇北朝の第4代後光厳天皇、同じく北朝5代後円融天皇北朝6代で100代目の後小松天皇、101代称光天皇、103代後土御門天皇、104代後柏原天皇、105代後奈良天皇、106代正親町天皇、そして第107代の後陽成天皇までの12帝である。後深草天皇の御代から持明院統大覚寺統の対立が始まる。この対立のそもそもは、後嵯峨天皇が兄の後深草より弟の亀山(90代天皇)を偏愛したことに端を発しているが、対立はやがて北条、鎌倉幕府の介入による天皇譲位をもたらし、やがて南北朝の戦いに発展する。この御陵には持明院統派の天皇達が眠っている」とすばらしい明解に辿り着く。これがネットの良い所ですな。ここで、次回若草読書会と今回の伏見街道往還の接点がよりはっきりとしたわけです。更なる深読みはスピーカーの槇麻呂氏に期待です。

 ここらでぼちぼち腹も減って来ました。二人の眼では飯屋探しを自然としているのですが、大変な事態に巻き込まれてしまいます。それは伏見稲荷さん、稲荷の坂を下ってくる異国人集団の波にもみくちゃになりつつ飯屋探しは危険且つ困難な状態です。なんとかこの人の渦巻きのような状態から脱しようと北上すると、人の流れは伏見稲荷駅へと左へ角度を変えます。京都の中心部へ向かうには手前のJR稲荷駅より京阪が良いのに決まっていますね。しかし、人並みが途切れると途端に店もなくなる、これも決まっています。さて、空きっ腹を抱えた落ち武者のようなバイカーがやっと辿り着いたのが「メモリー」という絶対に消えない不揮発メモリーに書き込まれたような喫茶店。ここで、焼きそば定食をいただくのであります。平安時代から時間が止まったようなメモリーで、たっぷりの冷えた水と堅めの焼きそばそして食後のアイスコーヒーをいただく暫くの間、休憩とさせていただきましょう。

 写真:ゲートは横大路運動広場、インクラインを越える、藤森神社二題、仁明天皇陵、深草十二陵二題、伏見稲荷の大鳥、京都の大路小路より(小学館

 東山の峰
 平安へ 平城(なら)から続く 御陵の道 <偐山頭火

 *街道名について。東山山麓を南北に走る街道名として今回「伏見街道」としましたが、精確な名称と順路は必ずしも一致しておりません。幾つかある街道名より今回の趣旨に沿ったものとして伏見街道とさせていただいた。