河内温泉大学

姓は車 名は寅次郎 人呼んで フーテンの寅と発します

南朝天皇の行宮を訪ねてその2 「賀名生皇居跡に五條高校分校」

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 栄山寺から賀名生までは国道25号に一旦出てから五條市内で国道168号にスイッチするが、今回私は吉野川左岸をショートカットした。以前この付近をバイクで散歩したことがあり、多少の土地勘が残っていた。途中、辯天宗総本山如意寺の脇を通ると168号にすり寄る。この辺りからは、幻の「五新鉄道」とつかず離れずの間隔を持ちつつ紀伊半島の山深く入っていくことになります。

 賀名生は元は「穴生」(あなう)と呼ばれていましたが、1351年足利尊氏南朝後醍醐天皇に帰順したことを天皇が喜び「願いが叶って目出度い」という意味から「加名生」(かなう)と命名して京都へ還幸された。これが、「正平の一統」です。後に「賀名生」に改められ、明治初期には呼び方を「あのう」と統一された。しかし、昭和34年の町村合併で自治組織としての名称は歴史から消え去りました。賀名生には見事な梅林があり、その近くの堀家には後醍醐天皇(1336年)は足利尊氏に追われ京都を脱出吉野に御所を移す間に、1348年には後村上天皇が、1373年には長慶天皇がそれぞれ行宮としました。この様に賀名生の地は通算約20年間に亘って南朝の行宮として機能していたことになります。

 当地を歩いてみると、今は柿の出荷シーズンの盛りです。全山柿色と云っても過言で無い見事な柿の山と、急斜面に点在する砦の様な立派な農家。これを往時に当てはめると柿が杉や檜の木材。そして、山々に囲まれた地形、さらには山を越えると東海や瀬戸内へと繋がる港と海路をひかえ、守りには絶好の位置と云えます。古くは壬申の乱でも、一旦吉野にこもった大海人皇子がここを起点に反撃に出て大友皇子を打ち破ります。吉野には、斯様な勢力を受け入れる要素が在ったのかも知れません。幕末の天誅組もその例であったのでしょうか。天誅組は敗れますが、大意は事後大成されて維新を迎えました。話が、大きく前後し過ぎ元へ戻しましょう。

 賀名生の歴史学習施設として国道脇に建てられたのが「賀名生の里歴史民俗資料館」。郷土史の書籍や文化財の展示そして賀名生と南朝の歴史を学習する電子紙芝居が見学出来ます。「観梅シーズンは多くの人が来られます・・・」と案内のご婦人が、ちらしを渡しながら語られるがここでも私一人。全館貸し切り状態で観覧するのも、少々浮かび上がってしまいます。隣接する敷地には移設された「堀家住居」も、天誅組吉村虎太郎が「皇居」と書いたという偏額のレプリカが掲げられています。但し、本物は資料館にありますが。

 歴史資料館の裏山にあるという北畠親房の墓を探します。が、少々案内にならない案内標識のおかげで銀輪散歩の距離が稼げます。最後は急峻に付き例によってバイクを押して上がりますと少しひらけた場所に出ます。案内標識によると「県立五条高校賀名生分校」跡とか、更に階段を数段上がると墓が在ります。ほぼ周囲の山々を見渡せる場所が、賀名生行宮の場所でもあったらしい。皇居跡にあった分校の校祖は後醍醐天皇と云える、由緒正しい学校と云うことになるわけですね。

 写真:賀名生の名由来、柿の山に柿のアーチ、賀名生の里歴史資料館、軒瓦にも菊が、堀家住居、北畠親房墓、行宮跡の分校跡

 懐
 奥深い 吉野の深山 歴史つくる     <偐歴史学者

 柿
 柿食えば 天下も美味いと 賀名生では  <偐四季>