河内温泉大学

姓は車 名は寅次郎 人呼んで フーテンの寅と発します

ヤマトタケル三陵を行く

 昨年のことでしょうか、若草読書会のスピーカー役が巡ってきた時に取り上げたのが白洲正子著「かくれ里」でした。講座タイトルは「御所は豊かな実りと伝説の里」で、彼女が廻った社寺仏閣を私なりに廻ってその感想をお話しさせていただいた。勿論、現地は必ず行くことにしているので二度三度大和そして御所周辺を廻っています。
 御所市郊外のヤマトタケルの陵という小山
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 その折に見付けたのが御所市冨田にある「日本武尊」の御陵です。宮内庁が言い方では「琴引原 白鳥陵」と表現しています。民家の裏山という見方しか出来ない粗末な御陵でした。その民家の奥さん曰わく「偶に宮内庁から見に来るが、何にもしていない」と。まあ、命日には正辰祭(せいしんさい)を宮内庁の職員が行っているのかも知れません。
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 ヤマトタケル伊勢国能褒野で薨じ、同地に「陵」を造って葬ったことは、古事記日本書紀ともに一致するところです。
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しかし、「古事記」においては能褒野から白鳥となって飛び、河内国志幾に留まり陵としたが、ここから更に白鳥となって飛び立っていく。
一方「日本書紀」によれば白鳥となって能褒野陵から出て、まず大和国琴弾原にとどまり、そこに「陵」を造ったところ、さらに白鳥となって河内国旧市邑(羽曳野市古市付近)に行き留まったので、そこにも「陵」を造ったが、また白鳥となって天に上ったという。
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 ヤマトタケルは、亡くなって後も更に活躍の場を異界に求め白鳥となって飛び立ったと言うことでしょうか。大きな鳥が飛び立つには後ろ足で地面や水面を蹴り、滑空しつつ舞い揚がります。その様を呼んだのが「羽曳野」市の名の由来と聞いています。誠に優雅な命名であります。
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 前置きが長くなりました、昨日伊勢からの帰路三重県亀山市郊外の能褒野王塚古墳へ行き、ヤマトタケルの陵墓と治定されている「日本武尊能褒野墓」を見学して来ました。これで、三箇所のヤマトタケル陵墓を訪れたことになりました。景行天皇の皇子でありながら何故か父に疎まれた悲運のヒーロー、日本神話の世界では少し異端児的に見えるだけにファンも多いのかな。
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 ヤマトタケル白鳥飛行コース①→②→③→永遠のヒーローは何処へ
 
 ヒーロー
 熊襲から 野火消し止め やや疲れ 能褒野で休み 三段飛びへ <偐山頭火>