旅の報告は我が師偐家持氏への感謝の念を含めて、All About 「大宰府&太宰府」からとします。菅原道真公が901年にこの地へ左遷された2年後に亡くなってその墓の上に建てられたのが天満宮です。西鉄太宰府駅からの参道には、各種土産物店が建ち並んでいるが、梅絡みが多いのは当然でしょう。私は「梅の実ひじき」を求めました。
次に西へ向かうと「観世音寺」という寺院が。僧侶としての戒律を授ける戒壇院があるのは東大寺と下野の薬師寺とここの三カ所だけとか。斉明天皇の供養のために天智天皇が作らせたそうですが、完成までに80年かかったというから、施主も完成を見たのかどうか?
次に西に進むと「大宰府政庁跡」です。偐家持氏の父上旅人や、山上憶良さんなどが勤務なさっていた、大和政権国の九州支社ですね。この道すがらには、私が好きな憶良さんの子どもを思う見事な和歌の歌碑がありました。犬・自転車立ち入り禁止と書かれていましたが多くの犬が散歩なさっているので、自転車も進入させていただきました。
さらに西へ進むと「水城」という土塁跡です。日本国が半島へちょっかいを出した反攻で、唐と新羅が攻めてきてはいけないというので、防塁を築いたその残骸です。この土塁を防人達が守っていたのですね。九州へ上がってきた唐などの兵隊をこのようなもので守れると思っていたのでしょうか。万里の長城と比べると子どもっぽいですね。
さて、この水城付近で大和へ帰ることとなった大伴旅人が作った歌の歌碑がありました。大宰府へ来てすぐに妻を亡くした彼はいたく悲しんだと言うが、大宰府を去る時には遊女児島と別れを惜しんだ歌を作っている。同じ光景を道真公にも見ました。彼が日常住んだところを「榎社」として今に伝わっていますが、彼を日夜世話したのが浄妙尼と説明版にありました。どちらも物証があるのですが、おおらかなんですね。
写真:太宰府天満宮、観世音寺(戒壇院左)、大宰府政庁跡、憶良歌碑、水城、児島・旅人歌碑、榎社
大宰府にて
やっと来た 大宰府にて 知った道 今も昔も 同じ道行く <偐旅人>
子等を思う歌
瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲しぬはゆ いづくより 来たりしものそ 眼交まなかひに もとな掛かりて 安眠やすいし寝なさぬ
反歌
銀(しろかね)も金(くがね)も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも
<山上憶良>
水城別れの段(現代語訳)
いつもやと 袖振るけども かどでには はしたないかと しんぼするんや<娘子児島>
男やぞ 水城の上で 涙なぞ 拭ふいてたまるか 女のために<大納言大伴卿>