河内温泉大学

姓は車 名は寅次郎 人呼んで フーテンの寅と発します

河内県「温泉大学程は怪しくない」

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 明治維新の直後、実際に存在した「県」と云う組織だったようです。ここ暫く司馬遼太郎作品を読み直しております。映画「関ヶ原」を観てきた愚妻に感化を受けて私も観に行こうと思います。妻ももう一度付き合って観ても良いと言いますが、しかし上映中にあれこれ聞かないで・・・という但し書き付き。

 俳優の顔と役が一致しないことがあると、つい脇に聞いてしまう癖があります。要は物覚えが悪いだけなのですが。そこで、今回は原作を読み直してから映画鑑賞へと取り組みました。そこで、課題小説を探す途中で先に見つかった本から読み出したのが「人斬り以蔵」や「戦雲の夢」等々。中でも、長宗我部盛親を描いた戦雲の夢は、河内が主戦場として詳しく描かれており、大坂夏の陣四百年事業でも八尾久宝寺の戦場などが話題となった人物です。

 写真の盛親物見の松は創作でしょうが、多分この付近だと考えられます。久宝寺寺内町の外れ長瀬川(古大和川)の西、生駒山裾の東高野街道を南下しつつ、急遽西進した藤堂軍とこの辺りでまみえたのでしょう。と、リハビリ輪行に早速出かけて来ました。そこで、八尾御坊大信寺で見かけたのが表題の「河内県」の標柱。随分前書きが長くなりましたので短く纏めます。

 引用で説明は足ると思いますが、何をした機関なのかや規模等よく判りません。維新後のドタバタ期で、腰が据わった行政機能など無かったのでしょう。しかし、河内県というなにがしかの行政機関が在ったことは間違いなさそうです。現在合併して東大阪市となった「河内市」と、本学とも縁が無さそうです。

 写真:長曽我部盛親物見の松、県庁碑のある大信寺山門、県庁の碑他二題

 河内
 県があり 市もあったが 残るは弁 <偐河内弁>