河内温泉大学

姓は車 名は寅次郎 人呼んで フーテンの寅と発します

白洲正子ワールド 「十一面観音巡礼」 富雄川周辺の太子道に沿って

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 十一面観音像との出会いを白洲正子は著書「十一面観音巡礼」の冒頭で「私はおそるおそる天衣の裾にさわってみて、天平時代の乾漆の感覚を確かめてみた。それは私の手に暖かく伝わり、心の底まで深く浸透した。とても鑑賞するなどという余裕はなく、手探りで触れてみただけである。」と桜井市多武峰への道中にある聖林寺での十一面観音との出会いを語っています。昭和7,8年頃和辻哲郎著の「古寺巡礼」を頼りにしての訪問。「かくれ里」や「十一面観音」を訪ねる旅の構想が生まれる遥か以前のこと。

 十一面観音とは、仏教の信仰対象である菩薩の一尊。観音菩薩の変化身の一つであり、六観音の一つでもある。頭部に十一の顔を持つ菩薩である。梵名は「十一の顔」、「十一の顔を持つもの」の意を現す。もともとは十一荒神と呼ばれるバラモン教の山の神で、一度怒る時は、霹靂の矢をもって、人畜を殺害し、草木を滅ぼすという恐ろしい荒神であった。そういう威力を持つものを遠ざける為に、供養をしたのがはじまりで、次第に悪神は善神に転じていった。しまいにはシバ神とも結びついて、多くの名称を得るに至ったが、十一面の上に、千眼を有し、二臂、四臂、八臂など、様々の形象で現された。日本古来の考え方からすれば、荒御魂を和御魂に転じたのが、十一面観音ということになり、そういう点で理解しやすかったのかもしれない。印度から中国を経て日本へ渡ったのは、六世紀の終わり頃で、現存するものでは、那智発掘の金銅十一面観音(白鳳時代)が最も古いとされている。と白洲は語り、さらに「十一面観音像は、必ず山に近いところ、もしくは山岳信仰と関係のある寺院に祀ってある」と語り。また、「素人の私には( 仏様に) どう近づけばいいのか。とにかく手さぐりで歩いて。なるべく多くの十一面さんに会ってみよう」とも語っています。( 十一面観音巡礼聖林寺から観音寺へ)

 この彼女の体験が、私の「かくれ里」からはじまり「十一面観音巡礼」と続く白洲正子さん追っかけの始まりであります。登場する舞台や寺がこれまでに何度も訪れていた身近な存在であったことも引き金になっていました。これまで無駄に見過ごしていた自分への反省を込めて、できる限り再訪して追体験してみようということです。そこで、今回は斑鳩近くの「勝林寺十一面観音」です。

 十一面観音巡礼中「登実の小河」で彼女は大和の勝林寺に、一風変わった十一面観音がある。現在は奈良国立博物館に保管されており、榧(かや)の一本造り、等身大で、漆でかためたように黒光がしている。和風ではなくて印度の女神像のように官能的・・・大和の平野でなくては、このような仏像は生まれなかった・・・と語り、勝林寺とはどういうお寺なのか博物館で訪ねても、ただ法隆寺の近くにあるとしか、くわしいことは何一つわからない。とも記しているが、博物館が預かっている仏像の持ち主の所在がわからないというのも時代を語っていますね。彼女はなんとか人を頼り、現在の所有者である「勝林寺」(斑鳩町高安)を尋ね当て、そこの僧職の案内で村はずれの富雄川を渡った西の社「天神様」へ案内されます。その社にあった「大日堂」にもともとお祀りしていたが、大正の初め頃お堂が崩れたので博物館で預かってもらっていると取材しています。さらに、明治の廃仏毀釈までは富雄川を渡った東の安堵村の飽波神社の神宮寺にあったが、寺が廃止されることで高安の村(大日堂)でお守りすることになったと、十一面観音像の明治以降の流転の様子も取材しています。

 彼女は飽波神社へもお参りしているが、村人から先の神宮寺が地元では「高安寺」といわれた古刹であり、十一面観音もそこから勝林寺へ移されたと推理している。聖徳太子斑鳩から橘寺の飛鳥まで通ったとされる道を「太子道」と称し、そのルート上に勝林寺と飽波神社そして天神様があります。それらを結ぶ糸の先に法隆寺があります。聖徳太子の宮跡は、高安から西南1キロの「上宮字神屋」にあり、今は成福寺という寺が建っているが・・・と語っている。その場所から平成3年の発掘調査で聖徳太子の住まいされたとされる「上宮遺跡」が発掘されて場所が特定されました。『大安寺伽藍縁起并流記資材帳』に記載のある「飽波葦墻宮」ではないかとされています。

 白洲は、高安から安堵へは(富雄)川にそって行くが、この辺まで入ると昔ながらののどかな田園風景で、葦がたくさん生えているのも、「葦垣宮」にふさわしい眺めである。太子が高安から橘寺へ、黒駒に乗って通われたという「太子道」も遺っており、国道のすぐ南には、その愛馬を埋めた「駒塚」、また太子の舎人であった調子麿の墓も、かたわらに建っている。いずれも伝説に過ぎないが法隆寺の塔を間近に望み、葦の葉ずれの音に耳を澄ましていると、そういう話を語り伝えた人々の心情がわかるような気がして来る。「太子信仰」とひと口にいっても、彼等にとって、それは仏教とは関係のないもので、もっと身近な、祖先崇拝の一種に他ならなかったであろう。と、結んでいます。

 なお、余談ながらこの十一面観音像はさらに流転しかけた。「奈良県斑鳩町高安の勝林寺では、本堂再建資金の調達と重要文化財の仏像の保持困難を理由に、重要文化財指定の仏像三体を売却する法的手続をとつた。仏像は、木造十一面観音立像、聖観音立像、薬師如来座像の三体で、文化財保護委員会ではこれを許可した。」と東京文化財研究所の記事がネットで検索されました。国立博物館に所蔵されている仏像を売りに出すというのは、単なる所有権だけの移転なのか、できたらそうであってほしいものと思うが、この仏様は我が身を削ってまでも人々の苦難を受け止めていただいているのでしょうか。正に仏の道を自ら歩んでおられるのでしょうか。

 ここまで作品中の白洲ではないが、猛暑の中をバイクで富雄川を行ったり来たり。フィニッシュは矢田丘陵を法隆寺を越えて天満池まで登ると汗だくです。後は風呂、法隆寺を見下ろす丘にある斑鳩町の老人施設は、他所の者でも安く迎え入れてくださる。これもあえて言うなれば聖徳太子の「和をもって貴しとなす」の教えを実践されている証なのでしょうか。ありがたく拝湯し差額に該当するだろうと思われるお金で、福祉関係者が運営する食堂で「かき氷」をいただいた。勝林寺十一面観音像に関する、不思議なもやもやも氷と共に一瞬に解け腑に落ちた気がしました。

 写真:十一面観音巡礼表紙より、勝林寺山門、天神様と大日堂碑、飽波神社、腰掛石で憲法を推考する聖徳太子二題、巨大な太子様は色直し、成福寺内の太子道碑、上宮遺跡の太子像、調子塚古墳、天満池から法隆寺塔と遠くに二上山など

 信仰
 手を会わす 相手違えど その先の 心は同じ ご先祖という <偐太子>