藤井寺市船橋地区の旧家「松永家(松永白洲記念館)」を訪ねました。御当主の松永明さんの先代「白洲(はくしゅう)」(本名:薫)さんの遺作となる書画を纏めて保存・展示するのが本来の機能ですが、明治期の当主松永長三郎が支配人を務めて敷設に多大な貢献をした「河陽鉄道」、今も近鉄最古の路線の鉄道として機能している道明寺線の史料も多く保存されていることでも有名です。江戸時代には四代にわたって医業も生業になされたいたので、漢方医学に関する資料も豊富に残っているという珍しい記念館です。
松永家のある船橋地区は江戸時代に大和川が付け替えられて、地域や社会が分断された悲しい地政を背負っている。当然、当家は庄屋として反対派であった。敵味方という表現は妥当では無いが、推進派の中甚兵衛陣営に対しては敵であったような関係です。さて、江戸時代以降は大和川に分断された舟橋地区でありますが、明治22年になると今の関西線に当たる大阪鉄道が敷設され、近代化を歩むことになります。今も昔も何かイベント若しくは人の流れを利用して起爆剤にと目論むのは同じ事。
伊勢の参宮線、鞍馬への叡山電鉄、南海高野線、一畑電車、水間鉄道や信貴山ケーブルも同じ目的です。藤井寺船橋の松永氏を中心に考えられたのが、鉄路で大和川を渡河して関西線と玉手山遊園地そして河内長野の観心寺への参詣客を運ぼうというものです。免許を取得して土地を買い、車両の輸入という事業量は大変なもので、数行では書き尽くせませんが、松永らがそれを乗り越えて明治29年の免許から2年後の31年3月24日柏原駅と古市駅間で運行が開始されます。この日は道明寺天満宮の祭典の日で、真に参詣線の始発に相応しい縁の日でありました。
開業から120年を迎へ地元では、郷土の鉄道遺産を見直そうという催しも企画されているようです。災害とインフラという面で考えても、明治期に作られた大和川を渡河した鉄橋はその主要部は殆どそのまま使われている。歴史としての知識も重要ですがそれがそのまま今も使われている、使うことが出来るという技術にも目を向けるのも、学習かと思います。古くなったから壊して・・・という、改革、改造、再開発と云う美辞の本に潰してはならないものが含まれていないかという学習から学ぶものがあるのでは。
中甚兵衛と渡り合った先祖を持つ松永家です。江戸時代京都の公家の御殿医を務めたり丸薬を販売していたという家柄ですので、鉄道以外にも多くの資料が展示・保管されていますが、私にとって全て紹介するには知識と技量があまりにも不足しております。今回は鉄道に関しての僅かな部分の紹介のみとして、他にも関心がおありの方は是非記念館を訪れて見学されることをお勧めいたします。
写真:松永白洲記念館玄関、中庭オブジェ(鉄道標柱と古写真)、鉄道資料写真、白洲遺作品、医療関係資料
箏曲「大和川」:中甚兵衛翁により生涯をかけて川の付け替え工事が行われた。2004年が大和川改流の300年にあたり、甚兵衛翁の壮大な偉業を称え中家伝来の資料に基づき作曲し、中九兵衛氏の監修を得て箏曲家大嶽和久氏が作曲したもの。
*松永白洲記念館の写真は、館長松永氏の許諾を得て撮影しています。