河内温泉大学

姓は車 名は寅次郎 人呼んで フーテンの寅と発します

熊野三山と渡海浄土へ船出の補陀洛山寺

  後白河法皇は実に生涯三十三回も熊野詣を行った。しかし、高貴な皇族だけでは無く一般庶民も「蟻の熊野詣」と称されるように、熊野那智大社、熊野速玉大社そして熊野本宮大社をめざして、大辺路を中辺路をそして奥駆道を蟻のように歩を進めたのは平安末期から鎌倉時代でした。
イメージ 1
 我々も現代の大辺路とでも云うべき近畿道から国道四二号と紀伊半島の西縁を鉄車で進みましょう。朝九時頃河内を出たら、正午には橋杭岩の串本に着きます。ここでの昼食は以前も御世話になった「すし浜田」、二千円で地魚の握りを堪能させてくれる。満腹になる、しかし出だしから降り出していた春雨は雨脚が強くなってくるばかり。大凡五十年前、学生時代に一度来たことがあるという旧友K君の記憶を呼び戻すため、潮岬灯台・大島を観光することにする。
イメージ 2
 潮岬は流石に降雨で車窓観光のみ、大島では難破したトルコ海軍の船を地元の漁民達が救助したという記念館を見学した。難波場所をリアルに見せる工夫など凝った演出だった。そして、橋杭岩にも。「位置関係が記憶と違う・・・」と云うK君、「台風か地震の前触れで杭が動き位置が替わったのかな・・・」と私、まあ旧知の仲というのはこう云うものでしょうか。
イメージ 3
 凝った展示でした。
イメージ 4
 これがその戦艦の模型です。
イメージ 5
 位置がズレたという橋杭岩
イメージ 6
 明日は快晴になるという天気予報だが、この日は益々ひどくなり続けます。大地町辺りでマックスです。捕鯨関係の展示や鯨骨神社、追い込み浜を車窓から観光、記念写真はどちらかが「代表取材」と省略しても、結構中身の濃い観光が楽しめます。
イメージ 7
  ここへイルカや鯨を追い込みます。
イメージ 8
  鯨の骨の鳥居があったのですが。
イメージ 9
  もめ事を恐れて撤去したのか。
  追記:2019年4月新しく鳥居が造られたという報道がありました。
イメージ 10
   この日の最後は「補陀洛山寺」(ふだらくさんじ)参詣で〆とします。
吉野から出立した修験者は、奥駆けコースを南下して臨死体験を重ねて一旦は死にます。そして、再び吉野へ戻ることでこの世に生まれ変わるというのが修行と云います。熊野は「異界」「根の国」とも云われる場所と関係しているのでしょうか。
イメージ 11
   ここ、補陀洛山寺の僧は、寺の前に広がっていた熊野灘に小舟に乗り「死の旅」とも云える南方にあるという補陀落浄土に往生するという信仰のお寺です。(寺名の洛と浄土名の落は表記が違います)
   修験者が吉野から大峰山に掛けての修行で疑似体験した「死」に身を投げ出して、衆生を苦しみから解き放とうという身代わりであり、自らも浄土へ行けるという信仰であったのでしょう。同じような形態は、全国特に西日本に多く見られるが、確実に行われたという記録多くが残るのはここだけですと管理者の説明です。山内には復元した渡海船が展示されていますが、長さ六メートル程の小舟の屋形には扉が無く四方には鳥居が建てられています。三十日分程度の糧食は携えていたと云います。曳舟で沖まで曳航された船は綱切島辺りで、曳き綱が切り離された瞬間に死を迎えたようなものです。
   補陀落とはサンスクリット語の観音浄土を意味する「ポータラカ」の音訳であります。現在は青岸渡寺の末寺で開山以来千六百年間に二十五人程が浄土をめざしたという。
イメージ 12
   この鳥居の直ぐ先に浜があったと云います。
イメージ 13
   本堂、管理者に色々お話しを伺った。
イメージ 14
  泊まりは、国民休暇村南紀勝浦という宿舎です。勝浦の少し北熊野灘に着き出した半島の先にある、景色の素晴らしい宿です。食い気も程々酒も飲まないというK君相手に久々の酒に独り弾んでも、所詮は一人。そこそこで就寝です。夜は混み合っていた温泉も、朝はひっそりとしています。補陀落浄土をめざした僧とは真逆の立ち位置から眺める熊野灘も良いものです。
イメージ 15
先の浄土か今宵の温泉か、取りあえず後者を選択。露天風呂の眺めです。
イメージ 16
  さて、本日はメインイベントの熊野三山を偐巡礼しましょう。平安時代なら山へ踏み込みますので更に苦行が続くのでしょうが、鉄車で行く巡礼は楽ちんです。
熊野那智大社青岸渡寺とセットになっています。那智の大滝那智大社のご神体です。大門坂(写真上)を登るとその先に滝が見えてきます。落差百三十三メートルは日本一番、日光華厳滝を凌駕する規模と荘厳な様子は、奈良や京の都の五重塔や七重の塔を上回る威圧感があり神々しさがあります。滝の対則の石垣道をくねくねと這い上がると、青岸渡寺の三重の塔そして本堂と那智大社の拝殿に着きます。かつては仕切りも無かったと云うが、今も無いが如く軒が重なるほどの神仏習合の様子は廃仏毀釈をよくぞ乗り越えたとも云えます。それだけ、神と仏が渾然一体となった日本の古い信仰が紀州には息づいていたのかも知れません。今では西国三三カ所観音巡礼一番札所、ご朱印帳を手にした老若男女がバスやタクシーからゾロゾロと降りて旗を持ったガイドが大きな声で叫んでいます。本地垂迹説によれば、那智大社の主神は熊野夫須美大神、本地は千手観音です。
イメージ 18
 豊臣秀吉寄進の本堂、中には役行者がおられたそうだが、気付かず対面出来なかった。
イメージ 19
 神仏混淆の結界でしょうか。かつては通路が架けられていました。
イメージ 20
 熊野那智大社拝殿。
イメージ 21
 坂を下り大辺路に出たら左へ進むとやがて新宮市に入ります。ここで暫し休憩というか、自然観察です。ひょっこりひょうたん島のように移動はしませんが、ぷかぷか浮かぶ島「浮島の森」見物です。植物群落の全体が、沼池に浮かぶ泥炭でできた島で正式名称は「新宮藺沢浮島植物群落(しんぐういのそうきしましょくぶつぐんらく)」と云い、島にも上陸出来遊歩道が設置されています。浮き沈みという実感は無いですが、なんだか根無し草にでもなった様な気にもさせられます。デラシネが浮島に乗っているというと、現実の自分自身のようなものですが。詳しくはネットで検索してください。
イメージ 22
 木道の横に池、その右に見えるのが浮島。
イメージ 23
 島が浮く構造図です。2000年の調査で64科125種の植物がが確認されたそうです。
イメージ 24
 気の早い桜も浮島の脇に。
イメージ 25
 次は熊野速玉神宮です。熊野川の河口付近に鎮座。主祭神の一つ熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)から社名が付けられたと云われ、本地仏薬師如来とされる。もともとは近隣の神倉山の磐座(ゴトビキ岩)に祀られていた社が、いつ頃からか現在地に祀られるようになったといわれる。神倉山にあった元宮に対して現在の社殿を新宮とも呼び、地名の由来かも知れません。二月六日の御燈祭は夕刻から夜にかけて松明を持った白装束姿の男達が、御神火をいただいて急峻な石段を駆け下りる神倉神社の火祭が有名です。
イメージ 26
 著名人熊野詣でランキング?
イメージ 32
 最後にめざす熊野本宮へは熊野川に沿って奥駆けへと進みます。急峻な峡谷の切れ目から時折滝が熊野川へと落ち込みます。
イメージ 33
 そして、空がやや広がったところに熊野本宮大社の急な階段が左に現れます。家都美御子大神(けつみみこのおおかみを主祭神とし、本地は阿弥陀如来です。1889年(明治22年)の大洪水で流されるまで社地は熊野川の中州にあった、その場所は「大斎原」(おおゆのはら)と呼ばれ、日本一高い大鳥居が建っています。
イメージ 34
 神様は安全になったが、参拝客はこの階段を上がります。
 主祭神の一つ熊野坐大神(くまぬにますおおかみ)は唐の天台山から飛来したとされている。これは須佐之男命とされるが、その素性は不明であるとか。太陽の使いとされる八咫烏を神使とすることから神武天皇東征の最後の切り札八咫烏とも繋がりが出てくる。西からの征服者に、地元が帰順してその先駆けとなったと云うことかも知れません。私は蹴球には全くと云って良いほど関心は無いのだが、八咫烏は良く存じています。一族の安全、子や孫達の健やかな成長等をお祈りして熊野川沿いの奥駆け道へと戻りましょう。
イメージ 27
 拝殿。
イメージ 28
 暫くすると十津川村に入ります。予定では一つくらいは拝湯出来るはずでありましたが、熊野三山それぞれに時間を要してしまい予定が押してきました。河内までは殆ど一般国道故先を急ぐこととしましょう。大和高田から新宮まで日本で一番長い路線バスという新聞記事をK君からもらっていました。そのバスとも何度かすれ違います、記事によると熟練運転手でこの路線が維持されているという。なるほど、来る度に道路改良されているが難所は何カ所か残る、一カ所でも難所があれば熟練の腕の見せ所となるのだろう。水量が減るこの時期が河川改修の時期でもあるので、工事区間も何カ所かあり交互交通で待ちも生じます。高所恐怖症というK君に谷瀨の吊り橋での渡河を勧めるも固辞される。当然だが、私も辞退です。
イメージ 29
 住民はこれを自転車やバイクで走り抜けます。
イメージ 30
 狭隘部を更に走ります。予定では拝湯するはずだった湯泉地温泉(写真下)への曲がり角を、断腸の思いで直進。幻の五新線鉄道橋架が見えて来たら五條市、ここで国道二四号に暫く乗り、南阪奈道路に乗るともう河内は目の前です。
久しぶりに河内で一杯・・・というK君の賀状の書込に始まった今回の旅。思い付きとは云え、再訪したいと思っていた熊野三山と補陀洛山寺は大変印象深い思い出となりました。先に記しましたが浄土への渡海の船出は、出立する本人気持ちの記録等は何も残っていませんが、井上靖の短編小説「補陀落渡海記」は渡海僧の葛藤を描いています。
日本の国作りの伝説・昔話の世界とも云える神武東征に絡み最後の難敵となった紀の国の立ち位置。そして仏教が入った以降は神と仏が一体となる日本独独な信仰と云える、本地垂迹の痕跡がありありと残る熊野那智大社青岸渡寺等は我々の信仰と云うものの再認識を迫ってくるものがありました。
イメージ 31

 渡海
 人のため 我が身を捨てた 浄土の海 <偐山頭火