後白河法皇は実に生涯三十三回も熊野詣を行った。しかし、高貴な皇族だけでは無く一般庶民も「蟻の熊野詣」と称されるように、熊野那智大社、熊野速玉大社そして熊野本宮大社をめざして、大辺路を中辺路をそして奥駆道を蟻のように歩を進めたのは平安末期から鎌倉時代でした。
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潮岬は流石に降雨で車窓観光のみ、大島では難破したトルコ海軍の船を地元の漁民達が救助したという記念館を見学した。難波場所をリアルに見せる工夫など凝った演出だった。そして、橋杭岩にも。「位置関係が記憶と違う・・・」と云うK君、「台風か地震の前触れで杭が動き位置が替わったのかな・・・」と私、まあ旧知の仲というのはこう云うものでしょうか。
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追記:2019年4月新しく鳥居が造られたという報道がありました。
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吉野から出立した修験者は、奥駆けコースを南下して臨死体験を重ねて一旦は死にます。そして、再び吉野へ戻ることでこの世に生まれ変わるというのが修行と云います。熊野は「異界」「根の国」とも云われる場所と関係しているのでしょうか。
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修験者が吉野から大峰山に掛けての修行で疑似体験した「死」に身を投げ出して、衆生を苦しみから解き放とうという身代わりであり、自らも浄土へ行けるという信仰であったのでしょう。同じような形態は、全国特に西日本に多く見られるが、確実に行われたという記録多くが残るのはここだけですと管理者の説明です。山内には復元した渡海船が展示されていますが、長さ六メートル程の小舟の屋形には扉が無く四方には鳥居が建てられています。三十日分程度の糧食は携えていたと云います。曳舟で沖まで曳航された船は綱切島辺りで、曳き綱が切り離された瞬間に死を迎えたようなものです。
補陀落とはサンスクリット語の観音浄土を意味する「ポータラカ」の音訳であります。現在は青岸渡寺の末寺で開山以来千六百年間に二十五人程が浄土をめざしたという。
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さて、本日はメインイベントの熊野三山を偐巡礼しましょう。平安時代なら山へ踏み込みますので更に苦行が続くのでしょうが、鉄車で行く巡礼は楽ちんです。
熊野那智大社は青岸渡寺とセットになっています。那智の大滝が那智大社のご神体です。大門坂(写真上)を登るとその先に滝が見えてきます。落差百三十三メートルは日本一番、日光華厳滝を凌駕する規模と荘厳な様子は、奈良や京の都の五重塔や七重の塔を上回る威圧感があり神々しさがあります。滝の対則の石垣道をくねくねと這い上がると、青岸渡寺の三重の塔そして本堂と那智大社の拝殿に着きます。かつては仕切りも無かったと云うが、今も無いが如く軒が重なるほどの神仏習合の様子は廃仏毀釈をよくぞ乗り越えたとも云えます。それだけ、神と仏が渾然一体となった日本の古い信仰が紀州には息づいていたのかも知れません。今では西国三三カ所観音巡礼一番札所、ご朱印帳を手にした老若男女がバスやタクシーからゾロゾロと降りて旗を持ったガイドが大きな声で叫んでいます。本地垂迹説によれば、那智大社の主神は熊野夫須美大神、本地は千手観音です。
熊野那智大社は青岸渡寺とセットになっています。那智の大滝が那智大社のご神体です。大門坂(写真上)を登るとその先に滝が見えてきます。落差百三十三メートルは日本一番、日光華厳滝を凌駕する規模と荘厳な様子は、奈良や京の都の五重塔や七重の塔を上回る威圧感があり神々しさがあります。滝の対則の石垣道をくねくねと這い上がると、青岸渡寺の三重の塔そして本堂と那智大社の拝殿に着きます。かつては仕切りも無かったと云うが、今も無いが如く軒が重なるほどの神仏習合の様子は廃仏毀釈をよくぞ乗り越えたとも云えます。それだけ、神と仏が渾然一体となった日本の古い信仰が紀州には息づいていたのかも知れません。今では西国三三カ所観音巡礼一番札所、ご朱印帳を手にした老若男女がバスやタクシーからゾロゾロと降りて旗を持ったガイドが大きな声で叫んでいます。本地垂迹説によれば、那智大社の主神は熊野夫須美大神、本地は千手観音です。
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坂を下り大辺路に出たら左へ進むとやがて新宮市に入ります。ここで暫し休憩というか、自然観察です。ひょっこりひょうたん島のように移動はしませんが、ぷかぷか浮かぶ島「浮島の森」見物です。植物群落の全体が、沼池に浮かぶ泥炭でできた島で正式名称は「新宮藺沢浮島植物群落(しんぐういのそうきしましょくぶつぐんらく)」と云い、島にも上陸出来遊歩道が設置されています。浮き沈みという実感は無いですが、なんだか根無し草にでもなった様な気にもさせられます。デラシネが浮島に乗っているというと、現実の自分自身のようなものですが。詳しくはネットで検索してください。
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そして、空がやや広がったところに熊野本宮大社の急な階段が左に現れます。家都美御子大神(けつみみこのおおかみを主祭神とし、本地は阿弥陀如来です。1889年(明治22年)の大洪水で流されるまで社地は熊野川の中州にあった、その場所は「大斎原」(おおゆのはら)と呼ばれ、日本一高い大鳥居が建っています。
主祭神の一つ熊野坐大神(くまぬにますおおかみ)は唐の天台山から飛来したとされている。これは須佐之男命とされるが、その素性は不明であるとか。太陽の使いとされる八咫烏を神使とすることから神武天皇東征の最後の切り札八咫烏とも繋がりが出てくる。西からの征服者に、地元が帰順してその先駆けとなったと云うことかも知れません。私は蹴球には全くと云って良いほど関心は無いのだが、八咫烏は良く存じています。一族の安全、子や孫達の健やかな成長等をお祈りして熊野川沿いの奥駆け道へと戻りましょう。
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拝殿。
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暫くすると十津川村に入ります。予定では一つくらいは拝湯出来るはずでありましたが、熊野三山それぞれに時間を要してしまい予定が押してきました。河内までは殆ど一般国道故先を急ぐこととしましょう。大和高田から新宮まで日本で一番長い路線バスという新聞記事をK君からもらっていました。そのバスとも何度かすれ違います、記事によると熟練運転手でこの路線が維持されているという。なるほど、来る度に道路改良されているが難所は何カ所か残る、一カ所でも難所があれば熟練の腕の見せ所となるのだろう。水量が減るこの時期が河川改修の時期でもあるので、工事区間も何カ所かあり交互交通で待ちも生じます。高所恐怖症というK君に谷瀨の吊り橋での渡河を勧めるも固辞される。当然だが、私も辞退です。
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久しぶりに河内で一杯・・・というK君の賀状の書込に始まった今回の旅。思い付きとは云え、再訪したいと思っていた熊野三山と補陀洛山寺は大変印象深い思い出となりました。先に記しましたが浄土への渡海の船出は、出立する本人気持ちの記録等は何も残っていませんが、井上靖の短編小説「補陀落渡海記」は渡海僧の葛藤を描いています。
日本の国作りの伝説・昔話の世界とも云える神武東征に絡み最後の難敵となった紀の国の立ち位置。そして仏教が入った以降は神と仏が一体となる日本独独な信仰と云える、本地垂迹の痕跡がありありと残る熊野那智大社・青岸渡寺等は我々の信仰と云うものの再認識を迫ってくるものがありました。
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渡海
人のため 我が身を捨てた 浄土の海 <偐山頭火>